曼珠沙華


深い深い眠り。
それは目覚めているときよりも、
ずっとずっと奥のほうの世界にいることだと思っていました。
ところが最近こんな話を聞きました。


その人は、とある日曜、埼玉にある曼珠沙華の群生地へハイキングに行ったそうです。
飯能の駅から乗り換えて、わりとすぐ。
東京の近くにもこんな所があるなんてと驚いたそうです。
しばらく歩くと、きれいな小川が流れているのを見つけました。
そしてその時、その小川にすこし足を入れてみたくなったのです。
彼は、さっそく靴と靴下を脱ぐと、その冷たい流れに足を浸しました。
目がさめるような冷たさでした。


ところが、
その瞬間、
まわりの景色がふっと沈んでいくように感じました。
そしてすぐに、その冷たい小川ごと、自分が他の人たちよりも1メートルくらい高いところへ、
浮き上がっていることに気づきました。

彼はこれが眠りだと直感したそうです。
けれどもそれは自分の内側へ沈み込むような眠りではなく、
眠りの方へ向かってうき上がって行くような眠りでした。
その証拠に彼と一緒にいた家族の人たちは、
だれひとり、彼が眠っていると気づかなかったのです。


そのようにして彼は眠り、自分の奥の方に向かって沈みこむように目覚めました。


その話を聞いて、ぼくはなるほどと思いました。
ならば世界は真っ昼間から眠りに満ち満ちています。
人も動物も木も石も小泉首相も、
目覚めているふりをしながら、
眠りの方へ向かって、しょっちゅう浮き上がっているのです。


そして夜にやって来る、自分に沈み込んでゆくような眠りこそ、
われらに残されたささやかな覚醒かもしれないのです。